来し方行く先~その4~一日一題の長文
小学校5年の夏、小学校の先生の勧めもあり、初めて中学受験をする児童を対象としたいわゆる進学塾の夏季講習に通うことになった。それまで、郊外の小学校では成績も良く、勉強に自信があった私だったが、入塾テストでいきなり一番下のクラスに振り分けられてしまった。テストを受けた時点ですでにまったくわからなかったことに本当に驚き、自分が井の中の蛙であったことを痛感した瞬間だった。
当時その塾では、自分の限界を知るという名目で1日では到底こなせない量の宿題が出される「宿題大量日」という日が1日あり、どこまでこなせたかの量とどれくらい眠気や遊びたいことを我慢して勉強を続けられたかを試された。それは、どれくらい努力をできたか、ということを重視するものだった。また、ノートの取り方や、問題集を解いてできた問題とできない問題を振り分ける○×チェックの方法などの勉強の仕方を教わった。そこの塾では、点数をとることよりも、丸暗記を禁じとにかく考えること、ていねいな勉強を行うこと、努力することが一番大切なのだということが強調されていた。私は、この講習で勉強の中身、特に算数はついていけないままであったが、この塾の過程を大切にする方針に子供ながらに心酔した。おもえば、私の勉強のスタイルはここで出来上がったのだと思う。
そして、いかにもこの塾らしさと言えるのが、「一日一題の長文」である。これは、塾の授業とは別に自主学習で毎日国語の長文問題を1題ずつ解くことである。一日たったの一題なのだが、これが思ったよりも大変なのである。私も何回も挫折しながら断続的にこれに取り組んだ。国語の場合、同じ問題がでることなどまずないし、なにかしら解き方があるわけでもない。それでも、毎日毎日コツコツこれを行うことができたときには、なぜか成果はあがってくるのである。
いかんせんしんどいのでさぼりがちになってしまう。やりもしないのに一日一つではやれることが限られてしまうなどと生意気になりやめてしまうこともある。それでもこれが毎日できるときにはなんだかきちんと自分が頑張っている気がして精神的にも落ち着く。私がこの時から、休まむことなく大学受験までこれを続けることができていたら、浪人も必要なかったかもしれない。現に私が浪人した際に、Z会の「現代文のトレーニング」という超難解な問題集を本当に血を吐くような思いで一日一題解いていたら、東大模試で国語全国1位という自分でも目玉がとびでるのではないかというような結果が出たことがある。
司法試験を受けた際にも、最後あとがないと一念発起した際には、一日1つ論文を書いた。
今は、さすがに受験勉強のようにはいかないが、何か行き詰ったときに現状を打破したいとか、自分を変えたいといったときには、「一日一つの~」とか、その応用で「一日30分の~」とか目標を決めて行動に移すようにしている。たとえば一日一章基本書を読むとか、一日30分必ず掃除とか。。毎日少しずつというのは大きく未来と自分を変える。一日一題の長文は、私の中の生きる知恵のようにもなっている。
弁護士 小野智映子